ご飯、牛乳、生揚げの中華煮、中華和え
華浦小校舎
華浦小学校 洗心園の二碑
2015年4月30日木曜日
2015年4月28日火曜日
2015年4月27日月曜日
2015年4月24日金曜日
2015年4月23日木曜日
2015年4月18日土曜日
沿革史
明治 5年 佐波第一小学校として発足明治
8年 華浦小学校と改名
昭和26年 新田小学校と分離完了昭和
33年 勝間小学校と分離完了
昭和44年 教育相談研究校
養心館竣工
昭和45年 健脚山完成
昭和47年 学校給食優良校として文部大臣賞受賞
昭和48年 開校100周年記念式ならびに事業
昭和53年 中四国小学校体育研究大会開催
放送教育全国大会会場校
昭和56年 全日本児童発明くふう展恩師記念賞
「豊田佐吉賞」受賞
平成 元年 読書感想文「てのひら文庫」優秀校
平成 5年「花いっぱい運動」山口県奨励賞
県・市「中・四国小学校体育」研究指定校
平成 7年 中・四国小学校体育研究大会開催
平成11年 パソコンルームインターネット設置
平成13年 市「ボランティア教育協力校」(15年度まで)
平成14年 市「心の教育」研究指定校(15年度まで)
平成15年「心の教育」研究発表大会(11月19日)
8年 華浦小学校と改名
昭和26年 新田小学校と分離完了昭和
33年 勝間小学校と分離完了
昭和44年 教育相談研究校
養心館竣工
昭和45年 健脚山完成
昭和47年 学校給食優良校として文部大臣賞受賞
昭和48年 開校100周年記念式ならびに事業
昭和53年 中四国小学校体育研究大会開催
放送教育全国大会会場校
昭和56年 全日本児童発明くふう展恩師記念賞
「豊田佐吉賞」受賞
平成 元年 読書感想文「てのひら文庫」優秀校
平成 5年「花いっぱい運動」山口県奨励賞
県・市「中・四国小学校体育」研究指定校
平成 7年 中・四国小学校体育研究大会開催
平成11年 パソコンルームインターネット設置
平成13年 市「ボランティア教育協力校」(15年度まで)
平成14年 市「心の教育」研究指定校(15年度まで)
平成15年「心の教育」研究発表大会(11月19日)
校歌
華浦小学校校歌
作詞:田中常正 作曲:鶴岡義雄
作詞:田中常正 作曲:鶴岡義雄
かがよえるいらかは高し
二碑立つ我が学舎に
平和の歌油然と湧く
白帆ゆくすがたうつくし
けがれなき真砂の校庭に
かぎりなき知恵洋々とみつ
あこがれの高くのぞみて
新しき道師と共にゆく
華浦の健児むすび豊かに
2015年4月17日金曜日
2015年4月8日水曜日
文教の祖 河野養哲
寛文元年(1661),養哲は三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれた。幼少の頃,父の同僚の家に養子に入り,その家を継いだ。しかし,成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず,夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは,子弟の教育にあたることにあった。かれはついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。
浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。しかし,医業もかれを満足させるものではなかった。
25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が,身分にかかわりなく同席して学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら,医者としてもはたらき,その収入のすべてを塾の経営につぎ込んだ。養哲は門弟を我が子のようにいつくしみ父を失い孤児になった小田村公望には衣食を与えてはげましたという。
享保4年(1719),養哲59才の時,萩に藩校明倫館が設立された。明倫館の儒者に推薦された養哲は,藩の重役桂広保の面接を受け,仕官をすすめられたが,あっさりと辞退した。そのかわりに,かれの門弟である御舟手組の子弟山根之清(華陽)・小田村公望を入学させた。彼らはこのとき20才前後の若者で,師養哲の期待にこたえて勉学にはげみ,のちに明倫館の学頭・都講(教授)となり,長州藩の学問をリードした。
一方,無禄の浪人から藩校の学者にとりたてられるという栄進の道をすてた養哲は,生涯をとおして官につかえることなく,妻もめとらないで三田尻のかたすみであいかわらず子弟の教育にあたった。
享保12年(1727),死にのぞんだ養哲は,「わが家を官に寄付し,おまえたちの学問修業の場とせよ。」と遺言し,一介の儒者として67才の生涯を閉じた。墓は三田尻の廃寺の雲光院墓地にある。
宝暦9年(1759),養哲の33回忌にあたって,門弟の山根華陽・小田村公望らが,養哲の遺徳をしたい,碑を上ノ丁の越氏塾に建立した。現在,その碑は華浦小学校の校庭に移転されている。
浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。しかし,医業もかれを満足させるものではなかった。
25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が,身分にかかわりなく同席して学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら,医者としてもはたらき,その収入のすべてを塾の経営につぎ込んだ。養哲は門弟を我が子のようにいつくしみ父を失い孤児になった小田村公望には衣食を与えてはげましたという。
享保4年(1719),養哲59才の時,萩に藩校明倫館が設立された。明倫館の儒者に推薦された養哲は,藩の重役桂広保の面接を受け,仕官をすすめられたが,あっさりと辞退した。そのかわりに,かれの門弟である御舟手組の子弟山根之清(華陽)・小田村公望を入学させた。彼らはこのとき20才前後の若者で,師養哲の期待にこたえて勉学にはげみ,のちに明倫館の学頭・都講(教授)となり,長州藩の学問をリードした。
一方,無禄の浪人から藩校の学者にとりたてられるという栄進の道をすてた養哲は,生涯をとおして官につかえることなく,妻もめとらないで三田尻のかたすみであいかわらず子弟の教育にあたった。
享保12年(1727),死にのぞんだ養哲は,「わが家を官に寄付し,おまえたちの学問修業の場とせよ。」と遺言し,一介の儒者として67才の生涯を閉じた。墓は三田尻の廃寺の雲光院墓地にある。
宝暦9年(1759),養哲の33回忌にあたって,門弟の山根華陽・小田村公望らが,養哲の遺徳をしたい,碑を上ノ丁の越氏塾に建立した。現在,その碑は華浦小学校の校庭に移転されている。
防府市の歴史
防府市一帯の地は,上古娑婆と称せられ,景行天皇の熊襲征伐の時その基地となってから,しばしば娑婆の地名が史上に見えている。大化の改新(645年)によって,国・群・里(郷)の制度が定められてから,当地(今の東佐波令)に周防の国府が設置され,同国の政治上の中心として栄え,現在の防府市の基礎が築かれた。 平安時代の末に,国司・郡司の制度が乱れて,当地は昔日の面影を失ったが,鎌倉時代のはじめ,後白河法皇の命により兵火のため焼失した東大寺を再建することとなり,俊乗房重源が大勧進に任ぜられ,周防の国務を管理した。かくて重源の非凡な人格および才能,ならびに東大寺の偉大な勢力を背景として,全国に類例のない国府政治が行われた。
南北朝時代に至り,守護・地頭の勢力が甚だしく増大し,とくに大内氏が山口を中心にとして西国に勢力を伸ばすに至ると,東大寺の管理する国衙領は次第に圧迫され,大内氏の跡を継いだ毛利氏治世のはじめには,わずかに土居八丁の地を領するに過ぎなくなったが,幕末まで1200余年の長きにわたって国衙の面影を残し,国司制度のなごりをとどめたことは,他に例をみない歴史上の貴重な史実であると注目されている。このような経緯で,当地を国府(こお)といっていたが,室町時代の初期から毛利氏の藩政時代を通じて一般に防府(周防国府の意)と称したのである。
明治維新に際し,百般の制度が改革され,同4年には廃藩置県となり,同12年に郡区町村編成法が施行され,同22年4月市町村制が実施されるに及び,牟礼村・佐波村・中関村・華城村の5か村となった。同35年1月1日佐波村と三田尻村を合併し,旧称を踏襲して,防府町と命名した。ついで大正15年11月1日中関町が町制を施行した。
かくて防府町を中心とした隣接町村は,大工場の誘致に成功した。昭和8年以来,利害を一にすることから急速に合併機運が熟し,近代産業都市への発展を目指して,昭和11年8月25日,防府町・中関町・華城村および牟礼村の2町2か村が合併し,面積63.2平方㎞,人口52684人の防府市が誕生した。
さらに昭和14年11月3日西浦村を,同26年4月1日右田村を合併し,数年度の同29年4月1日冨海村を,越えて同30年4月10日に小野村および大道村を合併して,現在に至っている。
(防府市制要覧より抜粋)
南北朝時代に至り,守護・地頭の勢力が甚だしく増大し,とくに大内氏が山口を中心にとして西国に勢力を伸ばすに至ると,東大寺の管理する国衙領は次第に圧迫され,大内氏の跡を継いだ毛利氏治世のはじめには,わずかに土居八丁の地を領するに過ぎなくなったが,幕末まで1200余年の長きにわたって国衙の面影を残し,国司制度のなごりをとどめたことは,他に例をみない歴史上の貴重な史実であると注目されている。このような経緯で,当地を国府(こお)といっていたが,室町時代の初期から毛利氏の藩政時代を通じて一般に防府(周防国府の意)と称したのである。
明治維新に際し,百般の制度が改革され,同4年には廃藩置県となり,同12年に郡区町村編成法が施行され,同22年4月市町村制が実施されるに及び,牟礼村・佐波村・中関村・華城村の5か村となった。同35年1月1日佐波村と三田尻村を合併し,旧称を踏襲して,防府町と命名した。ついで大正15年11月1日中関町が町制を施行した。
かくて防府町を中心とした隣接町村は,大工場の誘致に成功した。昭和8年以来,利害を一にすることから急速に合併機運が熟し,近代産業都市への発展を目指して,昭和11年8月25日,防府町・中関町・華城村および牟礼村の2町2か村が合併し,面積63.2平方㎞,人口52684人の防府市が誕生した。
さらに昭和14年11月3日西浦村を,同26年4月1日右田村を合併し,数年度の同29年4月1日冨海村を,越えて同30年4月10日に小野村および大道村を合併して,現在に至っている。
(防府市制要覧より抜粋)
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