防府市一帯の地は,上古娑婆と称せられ,景行天皇の熊襲征伐の時その基地となってから,しばしば娑婆の地名が史上に見えている。大化の改新(645年)によって,国・群・里(郷)の制度が定められてから,当地(今の東佐波令)に周防の国府が設置され,同国の政治上の中心として栄え,現在の防府市の基礎が築かれた。 平安時代の末に,国司・郡司の制度が乱れて,当地は昔日の面影を失ったが,鎌倉時代のはじめ,後白河法皇の命により兵火のため焼失した東大寺を再建することとなり,俊乗房重源が大勧進に任ぜられ,周防の国務を管理した。かくて重源の非凡な人格および才能,ならびに東大寺の偉大な勢力を背景として,全国に類例のない国府政治が行われた。
南北朝時代に至り,守護・地頭の勢力が甚だしく増大し,とくに大内氏が山口を中心にとして西国に勢力を伸ばすに至ると,東大寺の管理する国衙領は次第に圧迫され,大内氏の跡を継いだ毛利氏治世のはじめには,わずかに土居八丁の地を領するに過ぎなくなったが,幕末まで1200余年の長きにわたって国衙の面影を残し,国司制度のなごりをとどめたことは,他に例をみない歴史上の貴重な史実であると注目されている。このような経緯で,当地を国府(こお)といっていたが,室町時代の初期から毛利氏の藩政時代を通じて一般に防府(周防国府の意)と称したのである。
明治維新に際し,百般の制度が改革され,同4年には廃藩置県となり,同12年に郡区町村編成法が施行され,同22年4月市町村制が実施されるに及び,牟礼村・佐波村・中関村・華城村の5か村となった。同35年1月1日佐波村と三田尻村を合併し,旧称を踏襲して,防府町と命名した。ついで大正15年11月1日中関町が町制を施行した。
かくて防府町を中心とした隣接町村は,大工場の誘致に成功した。昭和8年以来,利害を一にすることから急速に合併機運が熟し,近代産業都市への発展を目指して,昭和11年8月25日,防府町・中関町・華城村および牟礼村の2町2か村が合併し,面積63.2平方㎞,人口52684人の防府市が誕生した。
さらに昭和14年11月3日西浦村を,同26年4月1日右田村を合併し,数年度の同29年4月1日冨海村を,越えて同30年4月10日に小野村および大道村を合併して,現在に至っている。
(防府市制要覧より抜粋)
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