2015年4月8日水曜日

文教の祖 河野養哲

 寛文元年(1661),養哲は三田尻の御舟手組の中船頭河野彦兵衛の二男として生まれた。幼少の頃,父の同僚の家に養子に入り,その家を継いだ。しかし,成長するにつれて水軍の船頭という仕事に馴染むことができず,夜ひそかに書を読んで学問にはげんだ。彼の人生の最大の望みは,子弟の教育にあたることにあった。かれはついに自分の意にそわない船頭役をしりぞき,ついで養家からも去った。

 浪人になった養哲は,暮らしをたてるために医業をいとなんだ。医者としての彼は,貧しい家に往診しても一文の謝礼も受け取ろうとせず,一方,おごり富む家からいくら金を積まれても往診しようとはしなかった。しかし,医業もかれを満足させるものではなかった。

 25才頃,三田尻にかねてから念願の私塾を開いた。養哲の祖先は伊予水軍の越智氏の出であったので,塾名を越氏塾と名付けた。塾には藩士の御舟手組の子弟や百姓の子弟が,身分にかかわりなく同席して学んだ。養哲はその収入の塾をひらくかたわら,医者としてもはたらき,その収入のすべてを塾の経営につぎ込んだ。養哲は門弟を我が子のようにいつくしみ父を失い孤児になった小田村公望には衣食を与えてはげましたという。

 享保4年(1719),養哲59才の時,萩に藩校明倫館が設立された。明倫館の儒者に推薦された養哲は,藩の重役桂広保の面接を受け,仕官をすすめられたが,あっさりと辞退した。そのかわりに,かれの門弟である御舟手組の子弟山根之清(華陽)・小田村公望を入学させた。彼らはこのとき20才前後の若者で,師養哲の期待にこたえて勉学にはげみ,のちに明倫館の学頭・都講(教授)となり,長州藩の学問をリードした。

 一方,無禄の浪人から藩校の学者にとりたてられるという栄進の道をすてた養哲は,生涯をとおして官につかえることなく,妻もめとらないで三田尻のかたすみであいかわらず子弟の教育にあたった。
 享保12年(1727),死にのぞんだ養哲は,「わが家を官に寄付し,おまえたちの学問修業の場とせよ。」と遺言し,一介の儒者として67才の生涯を閉じた。墓は三田尻の廃寺の雲光院墓地にある。

 宝暦9年(1759),養哲の33回忌にあたって,門弟の山根華陽・小田村公望らが,養哲の遺徳をしたい,碑を上ノ丁の越氏塾に建立した。現在,その碑は華浦小学校の校庭に移転されている。

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